「私の〇〇愛」



                 「私のうみ愛!」

下田にいて毎日皆さんと語り合えるテーマは何か。それは自然であり代表的なものが「海」なんです。
しかも観光で一番の収入源でもある事。これを宣伝しない訳にはいかない(笑)
ということで、白浜や多々戸浜の海のサーファーたちや海の素敵な写真をInstagramにほぼ毎日投稿しています。
もう楽しくて楽しくて止められない。海に行けば何時間でもサーファーを撮り続けています。
荒々しい中でのライディング、休日で心温まるショットなど、盛りだくさんの感動的なワンシーンをお届けします。
ぜひ私の海への愛が伝わる数々のショットをご覧ください。

Instagram、facebook、twitter、ブログ、全て活用することにより、
きれいで人をひきつけてやまない伊豆の海を宣伝しています。
今回このようなコンテストがあることを妻から知り、ぜひ応募してみようと思いメールさせていただきました。
獲得資金はさらに一歩ステップアップのため、カメラ購入資金にしたいと思っています。よろしくお願いいたします。

                                     下田市白浜 佐々木浩二


                「私の〇〇愛!」

月夜も道を照らすこと
海は冷たいだけではないこと
緑は毎日移り変わること
スポットライトなんかない
人混みに身をゆだねることもない
他人の嘘に自分の姿がかすれることもない
青空の広さも
月夜の優しさも
海のあたたかさも
森の贈り物も
この愛する自然の中で、
ビルの窓にはうつらないものと、
自分の声と、必要最低限なもので、毎日を共に生きていきたい。
最低限で最上級な幸せの為に、恵まれた土地下田で畑を始める資金に使わせて頂きたいと思っています。

                                   下田市在住 匿名希望の女性


            「私の手前味噌愛」

時代と共に何千年も前から食され続けてきた、食卓には無くてはならない調味料「味噌」。
私は、我が家の「手前味噌」の継続を願いつつ友人と味噌工房を立ち上げました。

先ず、味噌に適した秘伝の青大豆作りから始めました。寒暖の差のある畑で豊作でしたが、
脱穀は足踏み機械からのスタートでした。友人と私の大奮闘の様子を、
夫が見るに見かねて自動の脱穀機を買ってくれました。とても助かっています

でも素人の私達です。男手の助けがあってこその味噌作りです。味噌工房も6年。
ありがたいことに人から人への宣伝のお陰で、皆様に知って頂き始めました。
河津町商工会女性部の味噌作り体験も今年で3年目となりました。

地元の方、都会の方、正に「老若男女」の味噌作り体験も人気で、初めての味噌作りで、
自分の手の温もりを加えるだけで手前味噌が出来たと大変好評です。

私の初夢は、米麹の発酵機をもう1機増やしたい事です。
無添加で安心な手作り味噌の良さを生かして、食育にも力を入れて見たいと思いは膨らみます。
今、寒仕込み味噌を作っている最中です。


                                 河津町在住 高川千里


            「私の人間愛そして本愛」

私は本を読んでいた。『イノセント・デイズ』早見和真著である。
そして、そろそろクライマックス感動に浸っている頃、「河津町の挑戦に学ぶ!~愛は地域を救う!~」の告知をみた。
早見和真氏は少し前まで河津町に住んでいた作家で、『ぼくたちの家族』の上映会が下田市民文化会館で
行われた時にはトークイベントがあった。松山に引っ越す直前には河津町の文化の家でトークショーがあった。
そのトークショーで話していたことを、参加者に又聞きで聴いて私はショックを受けた。
「河津町に住んでいる間、どこの学校にも呼ばれなかったことが残念だ……」と話していたらしい。

7年間くらい住んでいたと思う。
今は下田を離れた我が子たちも、早見氏が河津町に住んでいた頃は、学生だった。下田高校でお話しして欲しかった…
とその時思い、残念でならなかった。

とても気になる存在でありながら、都合で私はどちらにも参加できなかった。それをとても後悔しながらも、
早見氏の著書を読むこともなく月日は流れ……しかし、ある人に早見氏のことを話すとその人が
日本推理作家協会賞受賞作『イノセント・デイズ』を読み、自分が今まで読んだ本の中の「私の一冊」
に選んだことで、私が読むきっかけになった。

読み始めると、どんどん話に引き込まれて行った。私は、推理小説には今まで縁が無かったのだが、
夢中で読んだ。早見氏の文章力の凄さにも感動した。

東京の本屋では「新潮文庫2017年に男子に売れた本」のランキングで2位に入っていることを知った。
内容は帯を引用すると「少女はなぜ死刑囚になったのか……」である。
私が声を大にして言いたいのは、『イノセント・デイズ』は早見氏が河津町に住んでいた時の作品であるということだ。
作品の舞台は横浜であるけれど。情報を検索する中で、早見氏の河津町での生活が少し分かった。

伊豆で妻と娘の3人暮らし。地域のソフトボールチームに参加し、三番、ショートで監督。
最初は五島列島に行こうとしていて、家も見つけたんですけれど、その頃にお袋が病気になったこともあって、
実家から遠いところは無理だと思って伊豆に決めました。望んだ以上に書くことにストイックになれたし、
正解だった気がします。

住んでいたのは元民宿。2階に7部屋あって、全部屋に伊豆七島のパネルがかかっているんです。
最初は「大島」で仕事して、「神津島」で寝て。みたいなことを考えていたんですけれど、
今は大学生の一人暮らしみたいです。ベッドもデスクも何もかも全部「利島」にあります。

最近の流れでは近所のファミレスに行くんです。そこが深夜の2時に閉まるまで書く。
河津町のファミレスといえば、あそこしかないからすぐ分かる…。
実は私も時々書き物をするために訪れていた場所で、とても嬉しくなった。

『イノセント・デイズ』にかんしていえば、主人公の仮のモデルは林真須美なんです。
あの事件については学生なりにいろいろと調べてて。で、もう本当に個人的な見立てとして、
林真須美は白とは言わないんですけれど、黒と断じる材料はないよなっていうのが僕の考えだったんです。
そこから4年後くらいにテレビでふっと林真須美を見た時に、当然のように凶悪犯罪者として見ている自分に気付いたんです。
一度は自分で「黒ではないよね」と断じたはずの人を、凶悪犯罪者として見ていることに気持ち悪さを感じた。
「自分は何に翻弄されているのか」というムカつきから、あの小説はスタートしています。

私はこの小説を読んで、早見氏の「人間愛」を感じた。
私もこれからの世の中必要なのは、弱者を思う「人間愛」だと思った。
そしてこの小説が河津町民である時に書かれたものであることに感動を覚えている。
自らも傑作と言っているが、その通りだと思う。

書店でみた『イノセント・デイズ』へのコメント「読後、あまりの衝撃で3日ほど寝込みました…」
どんな小説なのかと思っていたが、私もこの感動をどのような言葉で表していいのか分からない。
しかし、感動をとどめていてはもったいない。

そこで、早見和真氏が河津町に住んでいたという軌跡を近隣の図書館に形として残して欲しいと思った。
やっぱり本は素晴らしい!
私は今一時的に伊豆を離れ、東京で生活している。パティシエ修行中の娘が、
今年仕事を辞め「ピースボート」で世界一周をする予定だ。

その知見を生かして将来海の見える場所でブックカフェなんかできたらいいな…と夢見ている。
ミスタ―・チルドレンの『イノセントワールド』も名曲であると、懐かしんでいる今日この頃だ。


                                 東京都世田谷区在住 佐生綾子


    この半島への愛~半島のサスティナビリティを観光に生かして~

中学1年生の時、雪深い福井県から家族で移住して、南伊豆に住んで〇十年。
その時に受けた南伊豆の明るい太陽、海、山、川の感動がそのまま引き続いて生きています。
47年に始めた、日本で最初のコテージ、ヴィラ弓ヶ浜は低空飛行ながら今なお黒字経営。
息子夫婦にバトンタッチし、私は17年前に入手した里山2万坪をボチボチ開発。
父亡き後は10年程放置していましたが、数年前、ジオパークサイトに認定され、少しやる気になってきました。

ジオパーク全国大会には、その「カノー伝説の里山」に全国から使って頂きましたが、
私の考える方向とちょっと違う感があり、現在、はずして頂いたものの、
年間600800人が全国から訪れております。

マップルのみ、あとクチコミ、ブログでの発信ながら、
ユニークな楽しいツアーをして訪れる方に喜んで頂きたいという気持ちは、
47年のヴィラ弓ヶ浜の立ち上げ時と変わりありません。
2年前にはNHKの「聖霊の森」のロケに全山貸し切りで使われたものの、
そういう事はホームページにも出さず、ただただ、楽しい事を!
夢は、地元の各職業の人達が、時間が空いた時、農夫は農の格好で、漁師は漁の格好で、
その姿のまま、ありのままを観光客に話して案内して頂くことです。

住民全員が観光案内所であり、案内人になること。
私のツアーは、ここにしかない、世界でオンリーワンを目指しています。
未知の冒険 → ワクワク感 → 驚き・発見 → ときめき・楽しむ →深い満足 →
美味しい手づくりのお茶やお菓子を楽しみながらの会話 →素晴らしい休暇 →
素敵な人生をわずか1時間半~2時間以内に納めます。

現在ガイドは3人、すでに数人が経験しています。
できれば、今回の資金で「伊豆を愛する会」を立ち上げたいと願います。
ジオパークのようにガイド(案内人)には、認定も資格もいらないのです。
ジオツアーが低迷なのは、旅行商品になっていないから売れないのです。
私はツアー商品の作り方をお伝えしたい、それは必ず活性化に繫がります。
観光はヒトづくりなのですよね!
(当方には公の補助金は一切入っていません)
海、山、川をつなぐサスティナビリティは多大な投資もいらず、
あるものを磨いて生かすだけなのです。それ程の資産がこの半島にはあるのですから。


                 南伊豆在住 カノー伝説 オーナー 竹澤美恵子 ガイド 原田直香



            「私の人と人の愛」

東京生まれ東京育ちの私が、伊豆の下田に来て 早いもので年があっという間に過ぎました。
当時、東京で出産した半年の娘を連れ、東京での主人の仕事のこともあり、
家業をしている実家に戻ることになったのです。

まだその頃は若かったこともあり、たまに訪れていた下田への長期旅行気分できてしまっていました。
しかし、主人の親戚はいるものの友人知人も居ないところへ…。
娘とマンションの一室で引きこもりがちになっていた時期もありました。
当時住んだ須崎という土地柄か、方言も強く聞こえ、怒られているようにしか聞こえず、
ビクビクしたものです。
そんな中、娘も、今は無き須崎保育園ですっかり地元っ子になり、
私も友人達もでき次第に土地に慣れてきた時の出来事です。

とあるスーパーへ買い物に出ると、チャイルドシートですやすやと眠ってしまった娘を起こすのもかわいそうと、
すぐに戻ればと思い、大急ぎで買い物をしていると、聞いたことのある泣き声が店内に!そうです、娘の泣き声です。

泣き声に気付いた駐車場の隣にお住まいの、おばあちゃまが娘を抱っこして店内を探してくださっていたのです。
その方は、「うちの孫は東京にいてなかなか会えないのよ。
だから、今日みたいに買い物へ着たら遠慮なくうちへ置いていきなさいな!」と、
おっしゃってくれたのです。本当に嬉しかったのと、東京ではなかなか味わえない人の温かさを実感しました。

また、今では無くなってしまった須崎保育園への山道を上の娘と下の息子の手をつなぎ
二組の昼寝布団をかかえ歩いていると、80歳を裕に超えた腰の丸まったおばあさんが、
「しょい籠へ布団を入れらっせい!」と、言ってくださる。

本当に地域の皆さんに助けられ、母子共々たくさんの人の愛情で支えていただきました。
その子供達も、今は東京の大学へと旅立っていきました。
伊豆には、海も山もありきれいな川もたくさんあります。東京にいたころ感じなかった季節の移り変わり、
月明かりがとても明るいということ。全て身近に感じられます。

しかし、それよりも人の温かさです。深い愛情。人情。すばらしい人々。まさに人の愛です。
それから、私事になってしまいますが…今、家には認知症の母を東京から呼び一緒に暮らしております。
義父母も一緒なのですが、「下田に連れてきて面倒をみてやりなさい」と、数年前に言ってくださり今に至ります。

本当に日々助けてもらい、感謝しております。
デイサービスにも慣れ、介護の方々にも良くしていただいております。
下田に連れてきて良かったなと、思います。
しかし、悩みを共有できる家族の会などあったらいいな~と、思うこの頃。
また、私が越してきた頃のことを思い出すと…。
地域に知り合いも居ないお母様方の助けにもなってあげたい。話を聞いてあげられたら…。
子供が巣立った今だからこそ、今度は伊豆の皆さんへの恩返しがしたい!と、思うようになりました。
私自身、主人の家業の手伝いをしているし、母もかかえているのでどう動いたらよいのか、
具体的な案はまだ無いのですが…。

例えば最初に書いたようなよそへお孫さんいるような方ですとか、一時預かります。的なことだったり、
子育てを経験した私などでよろしければ、空いた時間に家に来てくだされば、
お茶を飲みながら話を聞いたりアドバイスなどもしてさしあげたいです。

そのために少しでも役に立つか分かりませんが、心理カウンセラーの勉強をし始めました。
人と人の輪。共有できる窓口を開きたいと考えております。
この伊豆下田にきて、たくさんの人達に支えられ今があります。
これからは、少しずつ恩返しをしていきたいです。
伊豆は気候だけではなく、人の心が温かいところなのですから…。

                                      下田市在住 寺嶋文子


                           「私のいとこ愛!」

僕には「純にい」という3歳年上の従兄弟がいます。家も近所ということもあり、昔から頼れる兄貴のような存在です。

僕の父の生まれは伊豆七島の神津島で、子供だった僕は夏休みになると遊びに行くのがとても楽しみでした。
沖縄生まれ神津島育ち(今はいろいろあって小山町に住んでいます)の純にいは、
僕が遊びに行くと島の色々な所へ遊びに連れて行ってくれ、今思い出すだけでもそれはそれは
沢山の楽しい思い出を作ってくれました。
そんな僕たちも大人になり、それぞれ日々の生活に負われ以前ほど話す機会も少なくなっていきました。

そんな平成17年の大晦日、僕の親父が他界しました。先日逝去された、星野監督と同じすい臓がん、
享年60歳と早すぎる死でした。
生前、日に日に衰えていく親父を僕以上に気にかけて、自分の母親をがんで亡くしている純にいは
いつも僕たち家族を支えてくれました。親父がまだ元気なうちにと「いとこ会」を企画した僕を全力で
サポートしてくれました。
そのおかげで、いとこ会は大盛況でした。その時の親父のあの嬉しそうな笑顔は今でも忘れることが出来ません。

親父の葬儀の直後、ショックでどうしたら良いか分からない自分を、我が事のように本気で心配し、助けてくれました。
そんな、なんでも腹を割って話して応援してくれる純にいと対照的に内向的な性格の僕は中々自分の本音が言えず、
感謝の言葉も言えぬまま時間だけが経ってしまいました。

もし、10万円を支援してもらえるなら、純にいに内緒で僕たち二人に何かと縁がある伊豆で豪華な旅行を企画して、
そこで今までの感謝の気持ちを形に出来たらと考えています。そこで男二人で酒でも飲みながら、
「腹を割って」話が出来たらいいなと思っています。今まで純にいにもらった恩を少しでも返せたらと思っています。

是非、応援お願い致します。

                                                        駿東郡小山町在住 山口雄輔


            「私の石仏愛:地域・人・世界を見つめて~高馬の傾城塚~」

(1)高馬の景観から

高馬の景観から下田市を流れる稲生沢川。その川沿いの道を歩くと、
人知れずお地蔵さまがひっそりと建っているのを見かけます。気にとめなければ忘れ去られそうな、
しかしどこか心に残る風景です。

小説などで知られている、唐人お吉はこの川で入水自殺したと描かれました。
今でも、お吉ヶ淵では慰霊祭が営まれ、たいていの人がここがお吉さんの終焉の場所と思い込んでいます。
ところが、よく調べてみると、この地点は亡くなる前に最後にお吉さんの姿が見かけられたところで、
川の増水で足をとられ流されたのはこれより上流で、その亡骸が上がったのが、
まさにこの高馬の「傾城塚」前の地点なのです。
「傾城塚」には、仏教の禅宗の仏塔「宝篋印塔」(ほうきょういんとう)、二体の石仏、
それに二つの墓石と思われるものがあり、総称してここを「傾城塚」であることを示し、
そのうち女性の姿をした石仏が、西山助蔵をはじめ近隣の有志の手によって建立された、
お吉さんを弔う石仏だと確認されました。

私は、幸運にもそのほとりの高台の家に住んでいて、毎朝、その小さなお像にお参りしております。
この場所には、その昔、船着き場があり、近くのお地蔵さまの礎石に「水上安全」と刻まれたものがあり、
水難事故が多かったことが分かります。
また、我が家の眼下には、その昔厩があったと言われ、この地点に旧下田街道が通っていることもあり、
ひと・ものの集散した場所であったことがわかってきました。我が家の前を通る旧下田街道は非常に狭く、
あちこちにお地蔵さまや墓石が見られます。
名も知れない人が道中倒れ、供養されていたことが分かります。
西中・本郷など周辺地域は川を中心に田園風景が広がっていました。その中に、高馬稲荷があり、
竹麻神社があり、そして点在するお地蔵さまがあるという景色でした。
黒船が来て、開港した下田。その表舞台に登場した下田の人間が、この小さな地域と結びついています。
郷土愛を育むには最適な教材です。下田を離れるもの、下田にとどまるもの、

人の動きは様々です。そんな動きの中で、心に残る下田が育つきっかけになるのではないでしょうか。
家庭で親が「傾城塚」やお吉さんや助蔵さんの話をし、学校の授業で語られることで、
子供の心のうちに下田のことが意識づけられれば、傾城塚」を語る価値は非常に高いと言わなければなりません。
言わば、石仏の授業です。こんな地域教育があっても
いいのではないでしょうか。

(2)歴史と祈り

お吉ヶ淵がお吉さんの終焉の場所で、ハリスに使えて、身を持ち崩したという話は、あくまでも小説などの中での話です。
そう、創作物の中ではどんな話を作ろうと、クリエーターの自由があるのは当然です。ですからそれは物語として成立します。

ところが、これを歴史上の人物の生涯の事実にしてしまったところに悲劇が生まれたのです。
お吉ヶ淵の話も下田に名所を作る意図があってできているものです。
ですので、そこにはお吉物語を作る仕掛人がいたことになります。村松春水などの文人はそれに手を貸したわけです。
歴史的事実に脚色を施し、事実として伝えられているのです。

歴史には人間が存在し、人間が存在するところに歴史は存在します。年号の事件、社会的な事件だけが歴史ではありません。
そこには人間の血の通った、生活や感情、五感を通してみた人の営みといったこともあるはずです。
そういう意味では、「傾城塚」の物語は、年号の記録としての歴史ではなく、人々の息遣いが感じれる歴史なのであります。

毎日朝に、この石仏にお祈りをささげています。
その背景にあるお吉さんや助蔵さんの話を知っているだけに切なさがこみ上げます。
歴史に感情を盛り込むな、とはイタリア遊学中に授業で指導教授が繰り返し言っておられた言葉ですが、
人の心に届くものも実は歴史家の仕事の一つだと、この毎朝のお祈りで痛感いたしております。

では、人はなぜ祈りをささげるのでしょうか?
それは近親者のことを思い、また将来の加護を祈ることでもありましょう。
でも一番重要なことは、癒しです。
祈ることで、自分に向き合うことです。これがまた自分を癒す効果を持っているのです。石仏ひとつで、
実をいうと、自己と対話しているのです。

個人の過去が個人の歴史であり、それを振り返ることは、自己との対話する行為です。歴史的なものに触れるというのは、
実をいうと、現在の自分との対話でもあるのです。
大げさなことに聞こえるかもしれませんが、自分の住む場所に思いを寄せ、過去を振り返るのは、
現実に生きる我々人間の知恵であり、将来の自分に投げかける自然な行為です。

祈りの行為は過去を振り返ることに似ているのです。ひとりの人間の中に、過去と将来が存在する証です。
「傾城塚」に詣でることは地域の歴史や社会を知ることでもありますし、自己を知ることでもあるのです。

(3)下田オリジナル

古の都、京都。昨年度のこの町で落とされた観光消費金額は1兆円を超えると言います。化け物のような都市です。
人、人、人。観光客を呼び込んだ成果が今問題を生み出しているようです。
病院に行くにも、観光客で一杯で、バスに乗ることもできない住民もいるようです。
この姿は、住民が望んだ観光の在り方でしょうか?

そこで下田です。冬の下田の街中の、寂しい姿はどなたもご存知でしょう。
では、観光客が沢山いればいいのでしょうか?京都のことを思えばそれも考えなくてはなりません。

量ではなく、質を高めて観光客を呼び込むことはできるでしょうか?
そのひとつのヒントが、下田オリジナルを発掘することです。
現在あるもの、過去にあったものを探し、活用することです。
東京や京都、大阪と同じものを下田に作っても、お客さんは来てくれません。
何故なら、下田には下田の良さがあるから、大都市にはないものがあるから、下田にお客さんが来るのです。
お吉祭りも黒船祭りも、一回限りのイベントではなく、継続したものになっているのも、
この地元ならではのものだからです。

「傾城塚」やお吉さんがやっていた「安直楼」は、そんな下田オリジナルのひとつの名所です。
お吉ヶ淵でお吉祭りをやり下田に人が来るようになったのも、この下田オリジナルを生み出したからです。

昨年暮れ、我々「傾城塚」を見守る有志を中心にして、お吉さんの誕生慰霊祭を「傾城塚」で行いました。
予想以上に、近隣の人のみならず、関心を持つ人にお集まりいただきました。
誕生慰霊祭の後、ちょっしたサプライズがありました。以前に、お吉さんの誕生の地、知多半島出身で、
静岡県在住の方が、ここ「傾城塚」に参拝されました。

そして、その方が、今度は、お吉さんの生家の近くの砂浜の砂をもって参拝され、奉納されました。
砂は一部、すぐ下の川岸と川にも撒いてゆかれました。

この方は、下田に来ると、お吉さんのことが頭から離れなくなったそうです。このような行動は、
われわれよりお吉さんを身近に感じられたからなのではないでしょうか。
まさに愛を感じます。こういうつながりが、人を呼び込むきっかけになるのではないでしょうか。

「傾城塚」の石仏ひとつで、下田の町・人・世界の輪が広がれば幸いです。

                                                          下田市在住 岩﨑 努


              私の「下田人」愛

下田に通うようになって5年になる。
海の幸、山の幸に舌鼓を打ちながら、エメラルドグリーンの海に心癒やされ、
歴史の奥深さに身震いを感じること数知れず。下田は本当にいいところだ。

だが、景色が良くて、うまいものがある…というだけなら、日本全国、いや世界中にいくらでもあるだろう。
そして、そういう場所は、みな独自の歴史を持っている。

ならば何故、下田に通うのか?
それは、下田の人…下田人に会いたくなるからだ。
東京生まれで横浜育ちの私には、いわゆる「田舎」というものがない。
どんなに郷土感があふれる場所へ旅をしても、「いらっしゃいませ」と言われるのが当たり前。
ところが、下田に行くと「おかえりなさい」と言ってくれる。
下田では2度目に会う人には、親しみを込めて、もう「おかえりなさい」なのだ。
このよそ者を受け入れる寛容さは、下田が観光の街として注目を集める以前、
それこそペリーがやって来た頃からすでに培われている下田人のDNAではないだろうか。

今でこそ東京から特急で2時間半という利便性はあるが、かつての下田は天城に隔てられた陸の孤島。
船で風待をするのは遠い国から来た人々ばかり。

こうした土地柄、遠路はるばる訪れてくれた人への「おもてなし」の精神は、
下田が発祥だったのではないかと思えるほどだ。

ちなみに初代駐日アメリカ総領事、タウンゼント・ハリスの小間使いとなったのは、
下田の二少年、助蔵と滝蔵。彼らは今にして思えば、日本初のコンシェルジュだったといえる。

さて、流行語にもなったこの「おもてなし」だが、「おもてなし」にとって大切なことは何だろう…と考えてみる。
ただ単に、相手の言うことをきくことが「おもてなし」ではないだろう。
「おもてなし」を受ける側が感銘するとすれば、それは、その土地にしかない何かに触れた時であって、
どこでも同じサービスを望むのなら、わざわざその土地に行った甲斐がない。

下田人の「おもてなし」は「下田愛」にあふれている。
それも、自慢話になるほど鼻をつくことのない、自らの思い出に裏打ちされた深い愛である。
横浜から来たことを告げると、たいていの人から…「横浜はいいね。街がオシャレで、何でもあるし」
…というようなことを言われる。

しかし、横浜に住んでいる身になると…「いやいや、渋滞は多いし、税金は高いし、
見かけより住みづらいですよ」…と、つい謙遜を通り越して愚痴話になってしまう。

ところが、下田に住んでいる方に…「下田はいいところですね」…と言うと、
まず「でしょう? 海はキレイだし、食い物は旨いしね」…という答えが返ってくる。

素直に自分の住んでいる土地を絶賛できる下田の人たちのことを、私はいつも羨ましく思う。
土地…は読んで字の如く、土と地面のことでしかない。
そこに、どんな人たちが、どんな笑顔を見せて暮らしているか。本当の土地の魅力は、そこだ。
下田という魅力的な土地は、下田を愛する「下田人」で、できている。
故に私にとっての「下田愛」は「下田人愛」なのだ。
さて、もし10 万円プロジェクトの賞金を得られたとしたら、いきつけの、あの店とこの店とあっちの店で、
いつも暖かく自分を迎え入れてくれる「下田人」と共に、大いに語り、飲みたいと思う。

そして、次世代の「下田人」のために、自分が知り得た下田の歴史を書き残し、
本にして配布するためにもつかわせてもらおうと考えている。


                             横浜市在住 幕末お吉研究会代表 杉本 武


                            私の「助蔵」愛

西山助蔵をご存じですか?
大正10年(1921 年)に亡くなっていますから、直接お会いになった方は、御子孫の中にもいらっしゃいません。
助蔵の少年時代は幕末の頃。13の頃、足軽になりました。

西中の農家に生まれた助蔵は、本来であれば百姓としてその生涯を終える予定でした。
ところが、ペリーの来航により下田が開港され、下田に大規模な奉行所が建設されることになると、
自分の家の土地が奉行所建設地として接収されてしまったために、仕方なく足軽になったのです。

奉行所が建ったのは、現在、下田警察署がある辺りです。
町中から離れたこの地に奉行所が建設されたのは、安政東海地震による津波で町中が被災し、
幕府がさらなる津波を恐れたからでした。

助蔵の運命を変えたのは大津波だったのです。
足軽とはいえ、百姓の子が苗字帯刀を許された侍になれたわけですから、
若い助蔵にとっては、正直、得意満面だったことでしょう。

しかし、その思いも長くは続きませんでした。
玉泉寺にアメリカ領事館を構えた初代駐日領事、タウンゼント・ハリスが自分の召使いに
地元の少年を住み込みで働かせるよう要望し、助蔵は幼馴染みの滝蔵と二人で鬼のような異人と暮らすことになりました。

ハリス一行が江戸に居を移してからも、助蔵と滝蔵は仕えていました。
ハリスが帰国した後にも新しい大使に仕え続け、滝蔵はアメリカへも渡っています。
この時、助蔵がアメリカに行けなかったのは、助蔵が長男だったからです。
家督を継ぐ長男に万が一のことがあってはいけないと家族に反対されたのです。
その後、滝蔵は結婚して大使館を辞め、貿易業を営みました。
一方、助蔵は家を継ぐために明治4年(1871年)、29 歳の時に下田へ戻って来ます。
その時の下田は国際港を橫濱に移し、昔の静かな港町に戻っていました。
自分の運命を変えた奉行所も、とうに解体され、年の離れた弟が畑仕事をしています。
四代のアメリカ大使に仕えた助蔵は、英語はできても野良仕事はできません。
助蔵にとっては、まるで浦島太郎にでもなった心境だったことでしょう。
以後、助蔵が下田でいかなる暮らしをしたのか…。
そのことについて紹介したものは、これまでありませんでした。
実は、この助蔵のことを知ったのは、お吉について研究をしている課程でのことでした。
お吉と違い、今でも御子孫が下田にいらっしゃる助蔵の話をするのは、
少し前までは遠慮されていたというのも大きな要因のようです。

お吉研究といえば、下田で眼科医をしていた郷土史家の村松春水が有名ですが、
春水が焼津から下田に移り住んできた時には、すでにお吉は鬼籍の人。

では何故、春水は躍起になってお吉研究をしたのか…。そこに浮上してきたのが助蔵です。
私は助蔵を「下田のジョン万次郎」だと思っています。
そんな助蔵の話を、できる限り史実に基づいて書き上げたいというのが、
私の当面の目標。本にして下田の小中学校に郷土の先輩」の話を伝えたいと考えています。

すでに御子孫のご了解は得ました。
原稿も少しずつですが進んでいます。
助蔵の波瀾万丈の人生…読んでみたいと思いませんか?

                            横浜市在住 幕末お吉研究会代表 杉本 武